2022年08月01日
臨床歯科を語る会
2022年07月28日
越後三十三観音巡礼その4
黒姫山の如意輪観世音は、霊験あらたかで、機織の熟達を願って、子女が盛に参詣したという。明治維新の神仏分離の頃、山上の観世音は何者かによって谷底へ落とされてしまった。村人は、谷川より漸く観世音を見つけたが、破損した部分がなかなか見つからなかった。そこへ旅の僧が通りかかり、破損した部分を次々と見つけると姿が見えなくなってしまった。人々は、その僧を観世音の化身ではないかと語り伝えている。広済寺は、天正年間に、佐橋朝広によって開創され本尊は如意輪観世音であり、後に別当となった。
■ご縁起
延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村磨の開創で、僧延鎮作と伝えられる御丈四尺二寸の千手観音は、京都清水寺の観世音と同木といわれている。田村磨は、奥州に勢力を持つ高丸という逆賊を退治して帰京するおり、この地に休息をし、再び出発しようとすると、不思議にも観世音は盤石のごとく動かなかった。
田村磨将軍は、ここに一宇を建て、観世音を奉安し、家来の伊勢ノ平氏、友重等を守り役として残し、帰京した。その名残りで、この周辺の地名は伊勢平治、友重となったと伝えられている。
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2022年07月27日
越後三十三観音巡礼その3
本尊十一面観世音は、弘法大師御作といわれ、上杉謙信公も深く信仰しておられた。川中島の戦の頃、謙信公は「若し戦に勝利を得れば、御供料を寄進し、長く子孫に言い伝え、信奉さすべし」と観世音に誓った。勝利を得た謙信公は、その誓い通りに、寺領八十石余りを寄進した。その後、上杉景勝が米沢へ国替の時、当寺も同道することになって観世音を舟に乗せたところ、いっこうに舟が動かず、よって元の所に安置した。このことから山号は、普光を不退山と改めた。
天平8年行基菩薩、諸国修行の折、森々としたここの霊窟を仏法応化の地であるとして暫く留錫された。毎夜北方に不思議な光りあり、見ると四尺四方の井戸があり、行基菩薩が錫杖をもって井戸の中をさらってみると三尺余りの霊木であった。御仏の与えられた物と思い、みずから彫刻して正観世音を安置し、一宇を建立した。幾多の興亡盛衰を経て今日は無住職になっている。
■ご縁起
聖武天皇の頃、およそ一千二百有余年前1人の六部が摩尼珠院を訪れ、「これは越後藤橋の観世音である。」といって、1体の聖観世音を置くと、いづことも無く立ち去って行った。それ以来、この村に良い事が続くので偏えに観世音のお陰であると思い、道端に御堂を建て、観世音を安置したところ、あまりにもあらたか故に、馬に乗った武士が、この御堂の前を通ると落馬して怪我をすることが度々起った。それで今度は、近くの閑静な山の中腹に御堂を建てて安置したら、それからはまた、村に平和が訪れたという。また、平成17年、御堂の老朽化と地震により、寺院内に移し、安置しました。
■ご縁起
大同2年、空咢上人の開創で、その頃は、大木茂り鷲が多く棲んでいたので、鷲尾山といい、不動仙示現の地であるところから不動院という。本尊千手観世音は、延文3年、仏師弘円上人の作と伝えられ、桂材で彫刻された御丈五尺の尊像である。昔は、堂塔伽藍8棟が建立され、上杉謙信公の祈願所として栄えたが、天正6年の兵火で伽藍、宝物など一切を焼失した。本尊観世音は、その時谷底へ投げ落され、あやうく難を逃がれた。昔栄えた寺の跡は、今でも山上に残って往時が偲ばれる。
2022年06月29日
越後三十三観音巡礼その2
朱鳥元年(686)持統天皇の勅願により泰澄大師観世音を刻まれて御堂建立。お前立の観世音(県文化財)は上杉謙信の父長尾為景の寄進である。本尊観世音は身代り観音と称せられ多くの人々の信仰を集めている。現在の御堂は上杉家の寄進で永禄2年(1559)再建されたもので、県内最初の国宝建造物と指定され現在は重要文化財。その格調高い手法は斯界に驚嘆されている。堂内丸柱中1本の柱は太さで日本一の萩の柱と確認されている。海抜200mの山頂に位し幽玄なる仙境と眼下に見下す眺望は正に絶景である。堂前から少し下がった所に新潟県の名水指定の清流が流れている
2022年05月31日
越後三十三観音巡礼を始めました
上人が開いた観音巡礼はすぐに世に広まりませんでしたが、その280年後花山法皇が西国三十三所を巡拝してから大いに発展しました。花山法皇は各霊場のご詠歌を定め、それを木札に記して霊場ごとに打ち付けて歩きました。札所を巡拝することを「打つ」というのはこのことに由来します。
さて、西国観音巡礼がさかんになるにつれ、各地に三十三観音霊場を設ける気運が高まってきました。越後三十三観音霊場は、鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227〜1263)が康元元年(1256)越後回国のおりに定め、ご詠歌を作ったと伝えられています。北条時頼は善政をしいた名君として知られ、宗教心にも厚く後に出家して最明寺入道と号しました。越後札所の第33番には寺名にその最明寺の名がつけられています。
観音霊場を巡拝する人は、もとは般若心経や観音経を写経して、それを各霊場に納め、そのしるしとしてご朱印をいただいたものでした。ご朱印をいただく帳面を納経帳というのはこのことによります。現在では参拝のしるしとしてご朱印をいただきますが、観音さまを信仰する証しとしてのご宝印ですから、心を込めて参拝し、できれば般若心経などをお唱えしてからいただきたいものです。
2022年04月26日
復活
2022年01月20日
QDT 1・2月号
─変わりゆく材料・コンセプト・ニーズの中で、各時点での「最善」を考える─
第1回 すれ違い傾向の残存歯偏在症例に対する補綴設計(前編)