2022年08月01日

臨床歯科を語る会

7月2・3日に3年ぶりに臨床歯科を語る会が開催されました。コロナの第7波が来る前に開催できたことは何よりでした。今年は分科会と全体会の発表を依頼されたので、3年ぶりの開催にふさわしいものになるよう準備を進めました。皆が集まる会は、やはり臨場感が違いました。久しぶりに楽しい会でした。しかし毎日発表があったため、懇親会は翌日の準備のため早々に切り上げました。もう少し多くの方々とコミュニケーションできると、もっと良かったと感じました。
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2022年08月15日

越後三十三観音巡礼その5 前編

7月10日に5回目となる巡礼に出かけてきました。この日も晴天に恵まれ清々しい気持ちで巡拝せさていただきました。この日は小千谷市片貝町にある第十四番札所の真福寺を最初にお参りさせていただきました。
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ご本尊は正観音菩薩様です。
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■ご縁起
 当山は大同元年の草創なり。その頃この村に一人の信仰深き優婆塞あり。或夜夢に龍神あらわれ告げて曰く「池水の辺に一寸八分の黄金の観音像まします。汝に授くべし」と。夢よりさめ、池水の辺を探しみるに黄金の観音像光明赫々たり。彼狂喜して傍の薫木を用い一尺八寸の像を刻し件の像を胎内佛として拝み続けり。星移って延宝元年火災にかゝり堂全焼す。不思議と胎内仏のみ灰上に立ち給う。住職其の胎内仏を供じて京に登り、三宝院御門主にこの不思議を奏す。宮にも感得し給い、一刀を転じて一尺八寸の正観世音を刻し住職俊永に与え給う。当山本尊はこれなり。

第十五番札所は長岡市柏町にある千蔵院です。今迄の札所と違い長岡の街中にあり、その佇まいも大変立派なものでした。
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ご本尊は千手観世音菩薩様です
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■ご縁起
 本尊千手観世音は、天平勝宝年間行基菩薩御作一寸八分の黄金仏で、文治2年京都より下り、源氏後に村上家武将代々の兜仏ぼとけとして信仰されたが、種々の奇瑞あってこの地に安置されるようになった。以来この地は千手村・千手町と呼ばれ、門前町として発展した。江戸時代、長岡藩主牧野公の祈願寺として、又広く庶民信仰の寺として栄えたが、この観世音を深く信仰した草間俊重が、京都の仏師鶴屋四郎御作の千手観音木像の腹中深く本尊黄金仏を秘蔵した。本尊は、明治戊辰戦争・昭和20年8月1日長岡空襲にも奇跡的に安泰であった。総檜造の観音堂は、昭和57年に建立された。


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越後三十三観音巡礼その5 中編

7月10日次に向かったのは見附市椿沢町にある十六番札所椿沢寺です。こちらのご本尊様は千手観世音菩薩様です。町の真ん中にあった十五番札所からまた緑豊富な地域へと移動しました。こちらは山門とお寺がかなり離れていて。少しわかりにくかったです。
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■ご縁起
 当山は大同2年、善光寺で四十八夜念仏修行された常尊上人が、阿弥陀三尊を彫刻して安置したのがはじまりで、境内に八カ寺を擁し七堂伽藍並び備わった大寺院であったという。殊に椿沢寺観世音のご縁起には、『昔、この村に椿の霊木が流れついた。丁度その頃、北越巡錫中の行基菩薩が、この霊木を一刀三礼して彫刻したのが御丈三尺五寸の本尊千手観世音である』と。その後上杉謙信公もこの観世音を深く信仰され、祈願成就の御礼として寺領、仏画、陣銅羅等礼状を付けて寄進され、今尚寺宝として保存され、本尊と共に1代1回の御開帳となっている。※ 観音堂は椿沢寺より離れたところにあります。ご朱印等は椿沢寺で頂けます。

第十七番札所は見附市小栗山町にある不動院です。こちらのご本尊様も千手観世音菩薩様です。こちらは色々な施設が併設されていてお寺の形態も本当に様々だと感じさせられました。ご利益に差があるわけではないと思いますが・・・
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■ご縁起
 行基菩薩が、この地で自ら彫刻して安置された御丈五尺の千手観世音が御本尊である。この観世音の開眼法要のとき、山上に北斗七星が煌々と輝いたので、その山頂に観世音の守りとして七所権現をまつり、その山を七所山と名づけた。その後、紀州日高郡日吉郷浄蓮上人と坂上田村磨が力を合せて伽藍を建立し寺は栄えた。又上杉謙信公も深くこの観世音に帰依し境内に我浄寺・福常寺の2ケ寺を建立して観世音の供養を命じた。八幡太郎義家もここに参詣し鰐口を奉納したという。七所山と呼ばれる裏山は経塚になっており銅製の仏像等県重要文化財が多く発掘された。
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越後三十三観音巡礼その5 後編

この日は丸々1日かけて、まだまだ頑張って巡拝させていただきました。第十八番札所は長岡市岩井にある根立寺です。ご本尊様は正観音菩薩様です。こちらは関係者と思しき方が石組みの階段を手作業で修繕されていました。本当にお寺の形態や運営は様々であり、継承することの大変さが伺えました。
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■ご縁起
 天和年中(1681〜83)の頃、この地方に眼病が大流行して苦しむ人が多かった。古志郡上条村の田中清蔵という人は、この眼病の苦しみを観世音に救ってもらわんものと、観世音を念じながら7日間の断食をした。満願の日、少しまどろんだかと思うと、1匹の蝶が眼の中にとびこんだ。しばらくして夢から覚めてみると、両眼は開き、眼の病はすっかりなおっていた。清蔵は感激のあまり出家して名を清観と改め、一生をこの観世音につかえた。現在の観音堂は140年ほど前に再建され、町の文化財に指定されている。濡縁の袖と桁上の彫刻はすばらしく、このお堂の見所である。

第十九番札所は出雲崎町尼瀬にある光照寺です。ご本尊は正観音菩薩様です。こちらは幾つかのお寺が、色々入り組むようになっていて駐車場も少しわかりにくい状況でした。ただ参拝の方もほとんどおらず、どこに停めても問題なさそうでしたので、比較的迷惑にならないところに停めて、お寺を探そうとしていたら、越後三十三観音霊場巡拝の方の駐車場はそこではないと間髪いれずにご指導をいただきました。なんだかお寺の方も世知辛い・・・
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■ご縁起
 永保年中(1081〜83)の頃、尼瀬蛇崩の海上に毎夜光るものが見え、人々は恐れてここに近づこうとしなかった。その時、荒木甚助なる勇者がおり、或る日小舟で近づいてみると光の本体は観世音であった。甚助はおそるおそる観世音を持ち帰り、御堂を建て安置した。これが三光観音である。その後、謙信公の母堂がこの観世音に祈願したところ大願成就したので、荒廃した堂宇を再建し、自ら光照坊と称し開基となった。尚、当寺十二世玄乗破了和尚について良寛和尚は安永4年18歳の時出家得度し修業した。

この日の最後は第二十番札所の照明寺です。長岡市寺泊にあり海の見える高台にあります。ご本尊は聖観世音菩薩様です。
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この階段の先にお寺とそれに連なる立派な施設があります。またお福様という一緒に写真を撮ると福がもらえる像もあります。
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寺泊の鮮魚センターも近いので、こちらにお越しの際は是非立ち寄ってみてください。
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■ご縁起
 照明寺観音堂の御本尊聖観世音菩薩は、弘法大師入唐の祈願仏として、大師住房の高野山龍光院(中院御房)に安置してあったが、永承2年(1047)栄秀阿闍梨が霊夢に依り、尊像を背負って諸国を巡行中、当所が景勝の地であったため、一庵を結び、本尊を安置し、如意山宝光院照明寺を開創した。寺伝に依れば源義経や上杉謙信も武運長久を祈念し、また、元禄8年(1695)5代将軍綱吉公の息女が眼病平癒の霊験を受けた折、幕命に依り村上城主榊原政倫が、新しい観音堂を建立寄進したと云う。其の後曲折があり、大正15年現本堂を再建した。
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2022年08月23日

越後三十三観音巡礼その6


7月18日に、第21番札所から第24番札所まで巡拝させていただきました。
第21番札所 吉田寺 住所は燕市渡部1195 ご本尊は聖観世音菩薩様ですDSC_1224.JPG

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■ご縁起
 吉田寺のご本尊は、古来より黒滝城の守り本尊としてまつられた聖観世音(行基菩薩御作)であります。たまたま、戦国時代の城主照田越前守日下部吉傳は深く仏法に帰依し、自ら出家し、石瀬種月寺第七世樂崇文詔禅師の弟子となり、永正年間(約480年前)城内に寺を建立して吉傳寺と称した。1578年御お館の乱おこり、黒滝城落城とともに数名の武士が、命がけで当時砦であった現在の地に移して寺を建てた(吉傳寺→吉田寺となる)。その後、何度かの火災にあい、特に大正14年11月に不慮の火災で伽藍悉く焼失し、昭和3年、現在の伽藍が完成して今日に至っている。

第22番札所 国上寺 住所は燕市国上1407 ご本尊は千手観世音菩薩さまです。
こちらのお寺は、比較的有名です。最近では新たに飾った絵が話題になっていました。また吊り橋や弥彦に通じる参道があったりと色々楽しめるお寺です。
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■ご縁起
 国上寺の開山は遠く元明天皇、和銅2年、越後一の宮弥彦大神の詫宣により、建立された越後最古のお寺であります。孝謙天皇の御宇に当山は、国中上一寺の勅宣あり、中略して国上寺という。開山当時(709年)は、修験道であったが、時代の権力者に改宗され、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派、真言宗豊山派へと現在に至る。住時には、上杉謙信公より十万石の格式を賜り、国上山の中に二十一ヶ寺、他県内外あわせると百三十有余ヶ寺の末寺があったが、時代の流れにより、現在数ヶ寺の末寺だけである。千手観世音菩薩は、聖徳太子が北陸御巡行の折、お登りになり、お作りになった仏様であります。

第23番札所 観音寺 住所は弥彦村観音寺453 ご本尊は聖観世音菩薩さまです。
入り口に大きな金色の観音様がおられます。これが目印になります。
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■ご縁起
 御本尊聖観世音は、聖徳太子御作と伝えられる。その昔、安倍貞任の残党、黒鳥兵衛征伐の為、京都より当地に下った、北畠中納言時定公の守り本尊であった。時定公は、戦いの途中武運つたなく戦死してしまったので、守り本尊の観世音は、この地に庵を建て、安置したのである。この観世音を「このめ沢の観世音」という。今はこのめ沢の地名は、どこか不明であるが、以前観音堂は七曲りに有った。この七曲りを、昔は、「このめ沢」と言ったことからきているらしい。平成15年(2003年)に再建。

第24番札所 景清寺 住所は西蒲区平沢455 ご本尊は千手観世音菩薩さまです。
近くには新潟県で最初にできたゴルフ場があり、その横の細い道を抜けていきます。
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■ご縁起
 昔景清という人がいた。源氏の家に生れたが故あって平家の一族となった。幼い頃母と同じ観世音の霊夢を見て作られたのが一寸八分の紫金の観世音である。この観世音の背後には景清の2字が刻まれている。源平の戦いで平家は亡び景清は悲運な運命をたどったが、常に観世音を念じ救われた。建保2年(1214)8月15日九州宮崎で景清は48才で亡くなった。景清の忠臣景門という人は、奥州飯田山の麓平沢村の出身であったが、景清の遺言によって観世音を守って故郷へ帰る途中この地を通り、故郷と同じ平沢村というのでここに観世音を安置して生涯をとじた。

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