先月6月16日に3回目の霊場巡りを行いました。この日は刈羽村の第五札所から柏崎市の第八札所までお参りさせていただきました。第五札所は宝蔵寺です。
■ご縁起
本尊十一面観世音は、弘法大師御作といわれ、上杉謙信公も深く信仰しておられた。川中島の戦の頃、謙信公は「若し戦に勝利を得れば、御供料を寄進し、長く子孫に言い伝え、信奉さすべし」と観世音に誓った。勝利を得た謙信公は、その誓い通りに、寺領八十石余りを寄進した。その後、上杉景勝が米沢へ国替の時、当寺も同道することになって観世音を舟に乗せたところ、いっこうに舟が動かず、よって元の所に安置した。このことから山号は、普光を不退山と改めた。
本尊十一面観世音は、弘法大師御作といわれ、上杉謙信公も深く信仰しておられた。川中島の戦の頃、謙信公は「若し戦に勝利を得れば、御供料を寄進し、長く子孫に言い伝え、信奉さすべし」と観世音に誓った。勝利を得た謙信公は、その誓い通りに、寺領八十石余りを寄進した。その後、上杉景勝が米沢へ国替の時、当寺も同道することになって観世音を舟に乗せたところ、いっこうに舟が動かず、よって元の所に安置した。このことから山号は、普光を不退山と改めた。
第六番札所はやはり刈羽村にある常楽寺です。ご縁起は以下のようになります。
■ご縁起
天平8年行基菩薩、諸国修行の折、森々としたここの霊窟を仏法応化の地であるとして暫く留錫された。毎夜北方に不思議な光りあり、見ると四尺四方の井戸があり、行基菩薩が錫杖をもって井戸の中をさらってみると三尺余りの霊木であった。御仏の与えられた物と思い、みずから彫刻して正観世音を安置し、一宇を建立した。幾多の興亡盛衰を経て今日は無住職になっている。
天平8年行基菩薩、諸国修行の折、森々としたここの霊窟を仏法応化の地であるとして暫く留錫された。毎夜北方に不思議な光りあり、見ると四尺四方の井戸があり、行基菩薩が錫杖をもって井戸の中をさらってみると三尺余りの霊木であった。御仏の与えられた物と思い、みずから彫刻して正観世音を安置し、一宇を建立した。幾多の興亡盛衰を経て今日は無住職になっている。
第七番札所は柏崎市藤橋にある摩尼珠院です。道路のすぐそばで驚きました。
■ご縁起
聖武天皇の頃、およそ一千二百有余年前1人の六部が摩尼珠院を訪れ、「これは越後藤橋の観世音である。」といって、1体の聖観世音を置くと、いづことも無く立ち去って行った。それ以来、この村に良い事が続くので偏えに観世音のお陰であると思い、道端に御堂を建て、観世音を安置したところ、あまりにもあらたか故に、馬に乗った武士が、この御堂の前を通ると落馬して怪我をすることが度々起った。それで今度は、近くの閑静な山の中腹に御堂を建てて安置したら、それからはまた、村に平和が訪れたという。また、平成17年、御堂の老朽化と地震により、寺院内に移し、安置しました。
第八番札所は柏崎市宮之窪にある不動院です。こちらはあまり看板などなくちょっとわかりにくい場所にありました。
■ご縁起
大同2年、空咢上人の開創で、その頃は、大木茂り鷲が多く棲んでいたので、鷲尾山といい、不動仙示現の地であるところから不動院という。本尊千手観世音は、延文3年、仏師弘円上人の作と伝えられ、桂材で彫刻された御丈五尺の尊像である。昔は、堂塔伽藍8棟が建立され、上杉謙信公の祈願所として栄えたが、天正6年の兵火で伽藍、宝物など一切を焼失した。本尊観世音は、その時谷底へ投げ落され、あやうく難を逃がれた。昔栄えた寺の跡は、今でも山上に残って往時が偲ばれる。
今回の巡拝では、本当に誰にも会うことはありませんでした。お寺の方にもお会いすることもありませんでした。コロナのこの時期にはぴったりと感じましたが、本当にこのような文化的建造物の維持の大変さが随所に垣間見られました。また歴史の中では火災によって焼失することが多いことにも驚きました。現代では人に会うこともないのに・・・