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2023年05月30日
今年は滝巡り
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2023年04月27日
3年ぶりのリアルND例会
2023年03月29日
2023年02月14日
4年ぶりのもくあみ会
2023年01月08日
越後三十三観音巡礼 完結その3
いよいよ最後となりました。第33番札所は最明寺です。所在地は三条市院内193 ご本尊は千手観世音菩薩様です。
■ご縁起
天平年間の開基で法相宗の深じん諦たい法師が行基菩薩御作の千手観世音を安置して開創した寺である。七百年前の康元年中、北条時頼諸国行脚の砌、当寺に立ち寄った因縁に依り、寺号を許され千手院を最明寺と改め、真言宗に改宗した。正保2年に寺が全焼し、古い記録が焼失したのは残念であるが千手観音像(御丈三尺七寸)は難を免れて現在に至っている。仁王門は明治3年建造、本堂と観音堂は明治27年の火災後建立されたものである。延宝4年に京都智積院の末寺となり、真言宗智山派に属している。
越後三十三観音巡礼完結その2
■ご縁起
貞観元年(859)性鑁法師により開創された。城主、三条定明公の祈願所として栄え、奥方千坂姫の菩提寺である。定明公はここに守護持仏を奉安し、公没後その霊と一子の菩提の為、姫は観世音を念じ生涯をここでおわられた。千坂姫の戒名は宝塔院殿普門妙泉大禅尼である。本堂左側、千坂姫宝篋印塔、一子を祀つる千坂地蔵尊、三条地震亡霊塔(市文化財)は本尊と共に参拝者はあとを絶たない。8月10日は三条3大まつりの1つで子安観音祭は多くの市民が参詣する。
越後三十三観音巡礼完結その1
観音堂に安置する十一面観世音菩薩の木像(一尺三寸の白色座像)は聖徳太子の御作と伝えられている。上杉謙信・景勝公、当国を領せし折、その家臣本庄重長此の郷の守となりてあつくこの尊像を信仰したが、その後新津城主丹波守勝資、以降代々城主が帰依渇仰した。観音堂の在る地を光明山、また五明山と名づけ祈願所となっている。
あけましておめでとうございます
人皇51代平城天皇の御代、大同2年、慈覚大師が仏教弘道の使命を帯びて聖徳太子御作の十一面観世音菩薩の尊像を捧持して当国へ御来錫された。その時大師は奇巌怪石重畳たる岩井戸山に登り、恭しく尊像を奉安して護摩迦行をされ観音夢想に依り当地を開闢された。或る夜白衣の乙女が白蓮を慈覚大師に授け、消えるが如く飛び去ったので大師は岩井戸山を観音霊地と定め、四十間四方の浄地を境内となし、大悲十一面観世音菩薩の尊像を安置して岩井山白蓮寺の草創としたのである。
2022年11月12日
越後三十三観音巡礼その8
奈良時代天平8年創建。聖武天皇の勅令により行基婆羅門両高僧建立。行基は大日三尊を刻み、婆羅門は釈尊左眼舎利を安置した。右眼を納めた寺を甲寺と呼ぶのに対して、左眼を納めた寺を乙寺と名づけたという。往古は乙きのと寺と称した。きのとの大日様とも呼ぶ。十万石の格式と一山に千の僧坊をかまえた霊場寺院として知られた。七堂伽藍が完備し、文化財の宝庫と共に天平の風情を今にとどめている。観音堂は江戸中期境内地桜園にあった。松尾芭蕉も奥の細道で参拝し、観音堂登り口に句碑がある。うらやまし浮世の北の山桜。
■ご縁起
弘治2年玄徹禅師が郷清水の水底から光を発して現れた十一面観世音を本尊として安置したのが、寺の始まりという。その後、万治元年この観世音を信仰していた村人が西国巡礼に旅立った。ところが道中持病が起きて大変苦しんだ。そこで、一心に観音の御加護を念じていると、1人の老僧が現われて「汝の信心浅からざるによって、その苦しみを救うべし」と持っていた瓶の水を注いだかと思うと、病はすっかり治ってしまった。そして老僧が、自ら杖を作って与え消え失せた。老僧が杖を作るとき、小指を傷つけたが、今も観音の小指に傷跡が残っている。