2022年08月15日

越後三十三観音巡礼その5 中編

7月10日次に向かったのは見附市椿沢町にある十六番札所椿沢寺です。こちらのご本尊様は千手観世音菩薩様です。町の真ん中にあった十五番札所からまた緑豊富な地域へと移動しました。こちらは山門とお寺がかなり離れていて。少しわかりにくかったです。
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■ご縁起
 当山は大同2年、善光寺で四十八夜念仏修行された常尊上人が、阿弥陀三尊を彫刻して安置したのがはじまりで、境内に八カ寺を擁し七堂伽藍並び備わった大寺院であったという。殊に椿沢寺観世音のご縁起には、『昔、この村に椿の霊木が流れついた。丁度その頃、北越巡錫中の行基菩薩が、この霊木を一刀三礼して彫刻したのが御丈三尺五寸の本尊千手観世音である』と。その後上杉謙信公もこの観世音を深く信仰され、祈願成就の御礼として寺領、仏画、陣銅羅等礼状を付けて寄進され、今尚寺宝として保存され、本尊と共に1代1回の御開帳となっている。※ 観音堂は椿沢寺より離れたところにあります。ご朱印等は椿沢寺で頂けます。

第十七番札所は見附市小栗山町にある不動院です。こちらのご本尊様も千手観世音菩薩様です。こちらは色々な施設が併設されていてお寺の形態も本当に様々だと感じさせられました。ご利益に差があるわけではないと思いますが・・・
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■ご縁起
 行基菩薩が、この地で自ら彫刻して安置された御丈五尺の千手観世音が御本尊である。この観世音の開眼法要のとき、山上に北斗七星が煌々と輝いたので、その山頂に観世音の守りとして七所権現をまつり、その山を七所山と名づけた。その後、紀州日高郡日吉郷浄蓮上人と坂上田村磨が力を合せて伽藍を建立し寺は栄えた。又上杉謙信公も深くこの観世音に帰依し境内に我浄寺・福常寺の2ケ寺を建立して観世音の供養を命じた。八幡太郎義家もここに参詣し鰐口を奉納したという。七所山と呼ばれる裏山は経塚になっており銅製の仏像等県重要文化財が多く発掘された。
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越後三十三観音巡礼その5 前編

7月10日に5回目となる巡礼に出かけてきました。この日も晴天に恵まれ清々しい気持ちで巡拝せさていただきました。この日は小千谷市片貝町にある第十四番札所の真福寺を最初にお参りさせていただきました。
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ご本尊は正観音菩薩様です。
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■ご縁起
 当山は大同元年の草創なり。その頃この村に一人の信仰深き優婆塞あり。或夜夢に龍神あらわれ告げて曰く「池水の辺に一寸八分の黄金の観音像まします。汝に授くべし」と。夢よりさめ、池水の辺を探しみるに黄金の観音像光明赫々たり。彼狂喜して傍の薫木を用い一尺八寸の像を刻し件の像を胎内佛として拝み続けり。星移って延宝元年火災にかゝり堂全焼す。不思議と胎内仏のみ灰上に立ち給う。住職其の胎内仏を供じて京に登り、三宝院御門主にこの不思議を奏す。宮にも感得し給い、一刀を転じて一尺八寸の正観世音を刻し住職俊永に与え給う。当山本尊はこれなり。

第十五番札所は長岡市柏町にある千蔵院です。今迄の札所と違い長岡の街中にあり、その佇まいも大変立派なものでした。
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ご本尊は千手観世音菩薩様です
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■ご縁起
 本尊千手観世音は、天平勝宝年間行基菩薩御作一寸八分の黄金仏で、文治2年京都より下り、源氏後に村上家武将代々の兜仏ぼとけとして信仰されたが、種々の奇瑞あってこの地に安置されるようになった。以来この地は千手村・千手町と呼ばれ、門前町として発展した。江戸時代、長岡藩主牧野公の祈願寺として、又広く庶民信仰の寺として栄えたが、この観世音を深く信仰した草間俊重が、京都の仏師鶴屋四郎御作の千手観音木像の腹中深く本尊黄金仏を秘蔵した。本尊は、明治戊辰戦争・昭和20年8月1日長岡空襲にも奇跡的に安泰であった。総檜造の観音堂は、昭和57年に建立された。


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2022年08月01日

臨床歯科を語る会

7月2・3日に3年ぶりに臨床歯科を語る会が開催されました。コロナの第7波が来る前に開催できたことは何よりでした。今年は分科会と全体会の発表を依頼されたので、3年ぶりの開催にふさわしいものになるよう準備を進めました。皆が集まる会は、やはり臨場感が違いました。久しぶりに楽しい会でした。しかし毎日発表があったため、懇親会は翌日の準備のため早々に切り上げました。もう少し多くの方々とコミュニケーションできると、もっと良かったと感じました。
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2022年07月28日

越後三十三観音巡礼その4 後半

越後三十三観音巡礼その4 後半
第十二番札所は南魚沼市にある天昌寺です。ご本尊は正観世音菩薩さまです。
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巡拝をお願いすると、鍵を貸してくださって隣の階段を上った先に正観音菩薩さまがいらっしゃるとのことでした。暑い日で汗を流しながらお参りしました。
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鍵を返しに戻ると、住職の奥様と思しき方が「法要から戻ってきたところ」「お饅頭をどうぞ」と地元の名物のおまんじゅうをくださいました。美味しかったです。ありがとうございました。
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■ご縁起
 養老6年(722)天下に悪病流行す。藤原房丸公(鎌足の曾孫)観音菩薩を祈念し、一子を得た前の因縁により、尊像を彫して加護を受けんとて、越の聖者泰澄大師に懇願した。長和元年(1012)密教行者恵心僧都、諸州の霊仏巡拝の時、当地魚野川西に紫雲天頂を覆える飯盛の山あり。怪みて窺うに大樹の下に朽たる大古仏一躯在り。礼せば泰澄大師作の正観音の像なり。依って自ら脇侍多聞・持国二天及び薬師像を彫し侍神とした。延徳元年(1489)雪洞庵七世禅実和尚を請し開山とし曹洞宗となり、天正元年今の寺号となった。

第十三番札所は魚沼市田川にある弘誓時です。こちらのご本尊も正観世音菩薩さまです。こちらの入り口には自前と思しき跨線橋が設置されていました。
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敷地に中には鉄筋の建物があり、お寺とは程遠いイメージでした。
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奥には立派な建物がありました。やはりここでも誰にも会いませんでした。
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■ご縁起
 長元5年(1032)京都の醍醐寺の名僧海信阿闍梨が、巡錫の折、白山権現のお告げにより、この地で敬刻、醍醐寺第五世仁海僧正により開眼されたのが、この観世音菩薩である。元中元年(1383)足利3代将軍義満公の奥方が、長子義持公ご誕生のとき、この観世音に安産祈願をされ、無事義持公が御誕生されたところから、「子安観音」といわれるようになった。その後嵯峨御所より十万石の格式を与えられ、元禄14年に京都智積院の法流を相承し、常法談林所の免許をうけ、多くの聖経、寺宝、古文書を有している。

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越後三十三観音巡礼その4

先月6月26日に4回目の霊場巡りを行いました。第九番札所は広済寺です。柏崎市高柳にあります。近くに「じょんのび村」があります。
 ■ご縁起
黒姫山の如意輪観世音は、霊験あらたかで、機織の熟達を願って、子女が盛に参詣したという。明治維新の神仏分離の頃、山上の観世音は何者かによって谷底へ落とされてしまった。村人は、谷川より漸く観世音を見つけたが、破損した部分がなかなか見つからなかった。そこへ旅の僧が通りかかり、破損した部分を次々と見つけると姿が見えなくなってしまった。人々は、その僧を観世音の化身ではないかと語り伝えている。広済寺は、天正年間に、佐橋朝広によって開創され本尊は如意輪観世音であり、後に別当となった。
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第十番札所は長徳寺です。十日町市朝栄にありご本尊は千手観世音菩薩さまです。こちらは阿吽像のある入り口から、とても立派で今まで巡拝した中でも随一の佇まいでした。
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参道も素晴らしく整備されていて、多くの方々に厚く支持されていることが随所に垣間見られました。また戦争時の外国の方の労働者を慰霊する場所も裏手にあり、土木関係からもきっと多くの支持を得ていると思われました。

■ご縁起
延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村磨の開創で、僧延鎮作と伝えられる御丈四尺二寸の千手観音は、京都清水寺の観世音と同木といわれている。田村磨は、奥州に勢力を持つ高丸という逆賊を退治して帰京するおり、この地に休息をし、再び出発しようとすると、不思議にも観世音は盤石のごとく動かなかった。
田村磨将軍は、ここに一宇を建て、観世音を奉安し、家来の伊勢ノ平氏、友重等を守り役として残し、帰京した。その名残りで、この周辺の地名は伊勢平治、友重となったと伝えられている。



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第十一番札所は大福寺です。こちらは南魚沼市長崎にあります。ご本尊は聖観世音菩薩さまです。こちらにはとても大きなイチョウの木がありました。思わず対比の写真を撮影しました。
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 ■ご縁起
本寺は聖徳太子の開基にして、開祖は玄珍法印なりとか。弘法大師越後国巡化の折、薬師仏及び十二神将を金精山の巌窟に安置し大福寺の奥院と称した。なお観音様は三十苅という所にあって三十苅の観音様として深く言仰されたが、明治に入って現在地に移された。寺も観音堂も一切の記録を焼失しており詳しく知ることが出来ない。本尊聖観世音菩薩は弘法大師御作と伝承されている。

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2022年07月27日

越後三十三観音巡礼その3

先月6月16日に3回目の霊場巡りを行いました。この日は刈羽村の第五札所から柏崎市の第八札所までお参りさせていただきました。第五札所は宝蔵寺です。
■ご縁起
 本尊十一面観世音は、弘法大師御作といわれ、上杉謙信公も深く信仰しておられた。川中島の戦の頃、謙信公は「若し戦に勝利を得れば、御供料を寄進し、長く子孫に言い伝え、信奉さすべし」と観世音に誓った。勝利を得た謙信公は、その誓い通りに、寺領八十石余りを寄進した。その後、上杉景勝が米沢へ国替の時、当寺も同道することになって観世音を舟に乗せたところ、いっこうに舟が動かず、よって元の所に安置した。このことから山号は、普光を不退山と改めた。
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第六番札所はやはり刈羽村にある常楽寺です。ご縁起は以下のようになります。
■ご縁起
 天平8年行基菩薩、諸国修行の折、森々としたここの霊窟を仏法応化の地であるとして暫く留錫された。毎夜北方に不思議な光りあり、見ると四尺四方の井戸があり、行基菩薩が錫杖をもって井戸の中をさらってみると三尺余りの霊木であった。御仏の与えられた物と思い、みずから彫刻して正観世音を安置し、一宇を建立した。幾多の興亡盛衰を経て今日は無住職になっている。
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第七番札所は柏崎市藤橋にある摩尼珠院です。道路のすぐそばで驚きました。

■ご縁起
 聖武天皇の頃、およそ一千二百有余年前1人の六部が摩尼珠院を訪れ、「これは越後藤橋の観世音である。」といって、1体の聖観世音を置くと、いづことも無く立ち去って行った。それ以来、この村に良い事が続くので偏えに観世音のお陰であると思い、道端に御堂を建て、観世音を安置したところ、あまりにもあらたか故に、馬に乗った武士が、この御堂の前を通ると落馬して怪我をすることが度々起った。それで今度は、近くの閑静な山の中腹に御堂を建てて安置したら、それからはまた、村に平和が訪れたという。また、平成17年、御堂の老朽化と地震により、寺院内に移し、安置しました。

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第八番札所は柏崎市宮之窪にある不動院です。こちらはあまり看板などなくちょっとわかりにくい場所にありました。

■ご縁起
 大同2年、空咢上人の開創で、その頃は、大木茂り鷲が多く棲んでいたので、鷲尾山といい、不動仙示現の地であるところから不動院という。本尊千手観世音は、延文3年、仏師弘円上人の作と伝えられ、桂材で彫刻された御丈五尺の尊像である。昔は、堂塔伽藍8棟が建立され、上杉謙信公の祈願所として栄えたが、天正6年の兵火で伽藍、宝物など一切を焼失した。本尊観世音は、その時谷底へ投げ落され、あやうく難を逃がれた。昔栄えた寺の跡は、今でも山上に残って往時が偲ばれる。


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今回の巡拝では、本当に誰にも会うことはありませんでした。お寺の方にもお会いすることもありませんでした。コロナのこの時期にはぴったりと感じましたが、本当にこのような文化的建造物の維持の大変さが随所に垣間見られました。また歴史の中では火災によって焼失することが多いことにも驚きました。現代では人に会うこともないのに・・・
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2022年06月29日

越後三十三観音巡礼その2


1日で2番札所から4番札所まで行ってきました。妙高から柏崎と比較的近くでしたので頑張ってお参りしてきました。いろいろ歴史的背景を調べてから行きましたが、栄枯盛衰が激しく、また維持管理の大変さが随所に垣間見られました。
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6月5日に2回目の越後三十三観音巡礼をしてきました。まずは2番札所 摩尼王寺に行きました。ネットでは民家のような写真でしたが、プレハブ車庫の中に収められていました。その昔は七堂伽藍がそびえ・・・時代の流れを感じました。
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第3番札所は大泉寺と言って柏崎市大清水にあります。こちらの縁起は以下のようになっています。以前は国宝にも指定されていただけあって、現在もその佇まいは幽玄で・・・大型バス駐車場があったりして、各札所にはいろいろ違いがあるなと実感させられました。ただ山門阿吽の片方が修理中で不在だったり、その他施設も・・・維持管理はどこも本当に大変なんだと推察されました。

朱鳥元年(686)持統天皇の勅願により泰澄大師観世音を刻まれて御堂建立。お前立の観世音(県文化財)は上杉謙信の父長尾為景の寄進である。本尊観世音は身代り観音と称せられ多くの人々の信仰を集めている。現在の御堂は上杉家の寄進で永禄2年(1559)再建されたもので、県内最初の国宝建造物と指定され現在は重要文化財。その格調高い手法は斯界に驚嘆されている。堂内丸柱中1本の柱は太さで日本一の萩の柱と確認されている。海抜200mの山頂に位し幽玄なる仙境と眼下に見下す眺望は正に絶景である。堂前から少し下がった所に新潟県の名水指定の清流が流れている


サイガに
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第四霊場は、少しわかりにくいところで近隣の住民の方に駐車場の場所などお聞きしたのですが、少し友好的対応という感じではありませんでした。近隣の住民の方が、皆もろ手をあげて歓迎しているわけではないことを実感しました。なるべく迷惑にならないように気をつけてお参りさせていただこうと思いました。


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2022年05月31日

越後三十三観音巡礼を始めました

長引くコロナ禍やロシアのウクライナ侵攻など世の中に暗いニュースが多いので、何かしようかと思い調べていたら、越後三十三観音巡礼に巡り会いました。
公式ホームページには以下のように記載されています。

三十三カ所観音霊場の巡拝は、養老2年(718)大和国長谷寺の徳道上人によってはじめられたといわれています。伝説によれば、急病で亡くなった徳道上人は、冥界で閻魔大王に会い、悩める人々を救うために観音霊場を定めてほしいと頼まれ、三十三の宝印を授かりました。この世に帰された上人はさっそく近畿地方に三十三カ所の霊場を定めました。これが西国三十三所巡礼のはじまりです。現在、各札所参拝のおりに押していただくご朱印は、この閻魔さまから授かった宝印を起源とします。
 上人が開いた観音巡礼はすぐに世に広まりませんでしたが、その280年後花山法皇が西国三十三所を巡拝してから大いに発展しました。花山法皇は各霊場のご詠歌を定め、それを木札に記して霊場ごとに打ち付けて歩きました。札所を巡拝することを「打つ」というのはこのことに由来します。
 さて、西国観音巡礼がさかんになるにつれ、各地に三十三観音霊場を設ける気運が高まってきました。越後三十三観音霊場は、鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227〜1263)が康元元年(1256)越後回国のおりに定め、ご詠歌を作ったと伝えられています。北条時頼は善政をしいた名君として知られ、宗教心にも厚く後に出家して最明寺入道と号しました。越後札所の第33番には寺名にその最明寺の名がつけられています。
 観音霊場を巡拝する人は、もとは般若心経や観音経を写経して、それを各霊場に納め、そのしるしとしてご朱印をいただいたものでした。ご朱印をいただく帳面を納経帳というのはこのことによります。現在では参拝のしるしとしてご朱印をいただきますが、観音さまを信仰する証しとしてのご宝印ですから、心を込めて参拝し、できれば般若心経などをお唱えしてからいただきたいものです。

世の中の安寧を祈念して、巡礼を始めてみました。
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妻と二人、誰にも会うことなく、しっかりとお参りしてきました。

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2022年04月26日

復活

がらにもなく1月に沢山書いたので、2月・3月はなんとなくお休みしてしまいました。4月になり雪が消えて庭の植物もいろいろ変化が出てきました。高田の桜とブルーインパルスもなかなかでしたが、個人的には2年前の大雪で根元から折れてしまった蝋梅の木に起きた変化が感動的でした。
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2年前の大雪はひどく、自宅もそうでしたが、診療所の庭の木も大きな被害を受けました。上の写真は雪が溶けてきた時に撮影したもので、正面の椿の奥、右上に蝋梅が根元から折れて横たわっていました。雪が消えてから破折部を切断し根っこだけは抜かずに放置していました。今年、根だけになっていた蝋梅の木に、驚くべき変化が確認できました。
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根しかなかった蝋梅の木の横から新たな幹・枝が出現し青々とした葉をつけ、まさに復活・再生といった感じです。植物の生命力に感動し、人もかくありたいとしみじみ感じました。
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2022年01月20日

QDT 1・2月号

コロナ禍で時間があったので、原稿依頼を受けて、久しぶりに原稿を書きました。 QDT 1・2月号に前後編で掲載されます。よかったらみてください。いろいろご指導・ご助言をいただければ幸いです。

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リレー連載 補綴設計『今ならこうする』
─変わりゆく材料・コンセプト・ニーズの中で、各時点での「最善」を考える─
第1回 すれ違い傾向の残存歯偏在症例に対する補綴設計(前編)
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