2022年10月06日

越後三十三観音巡礼その7

7月21日には色々用事があり新潟市内に行きました。次の札所は新潟市内西堀にあるとのことでこの日はここのみ巡拝させていただきました。この辺りにはお寺が多く、ナビの案内では少しわかりにくい狭い道を入っていく形になります。巡拝される方は要注意です。
第25番札所 新城院 住所は新潟市西堀通8番1583 ご本尊は千手観世音菩薩様です。
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狭いですがこの中まで車で入れました。駐車場がこの中の場所のようで、おおきな車は気をつけてください。
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■ご縁起
 当寺は、鎌倉時代鑁照阿闍梨によって開創され、その後、新潟城主寄居土佐守の祈願所となった。境内には、本堂、観音堂、地蔵堂、金毘羅堂などが在ったが、明治初期の災火で諸堂全てを焼失してしまった。現在は、本堂内陣中央に大日如来、向って左に地蔵尊、右に礼所本尊の千手観音、摩利支天、歓喜天が祀られている。千手観音は、弘法大師作と伝えられ、一寸八分の木像であるが、昭和53年新たに等身大の檜造千手観音を造顕し、その頭部に納めた。
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2022年09月28日

外壁工事始めました

9月15日から外壁工事を始めました。新しい診療所は海のそばに立っているため、外壁や軒天の劣化が予想以上に早く、移転時にはしばらくは大丈夫と見ていたのですが、業者からもうそろそろということで足場から組み始めました。
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ちょうど台風の影響を受けそうな時期だったので、ネットは一週間後に貼ることになりました。
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なかなかの規模の工事になってしまいました。外壁の塗装まで10月いっぱいはかかりそうです。出来上がりが今から楽しみです。
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2022年08月23日

越後三十三観音巡礼その6


7月18日に、第21番札所から第24番札所まで巡拝させていただきました。
第21番札所 吉田寺 住所は燕市渡部1195 ご本尊は聖観世音菩薩様ですDSC_1224.JPG

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■ご縁起
 吉田寺のご本尊は、古来より黒滝城の守り本尊としてまつられた聖観世音(行基菩薩御作)であります。たまたま、戦国時代の城主照田越前守日下部吉傳は深く仏法に帰依し、自ら出家し、石瀬種月寺第七世樂崇文詔禅師の弟子となり、永正年間(約480年前)城内に寺を建立して吉傳寺と称した。1578年御お館の乱おこり、黒滝城落城とともに数名の武士が、命がけで当時砦であった現在の地に移して寺を建てた(吉傳寺→吉田寺となる)。その後、何度かの火災にあい、特に大正14年11月に不慮の火災で伽藍悉く焼失し、昭和3年、現在の伽藍が完成して今日に至っている。

第22番札所 国上寺 住所は燕市国上1407 ご本尊は千手観世音菩薩さまです。
こちらのお寺は、比較的有名です。最近では新たに飾った絵が話題になっていました。また吊り橋や弥彦に通じる参道があったりと色々楽しめるお寺です。
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■ご縁起
 国上寺の開山は遠く元明天皇、和銅2年、越後一の宮弥彦大神の詫宣により、建立された越後最古のお寺であります。孝謙天皇の御宇に当山は、国中上一寺の勅宣あり、中略して国上寺という。開山当時(709年)は、修験道であったが、時代の権力者に改宗され、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派、真言宗豊山派へと現在に至る。住時には、上杉謙信公より十万石の格式を賜り、国上山の中に二十一ヶ寺、他県内外あわせると百三十有余ヶ寺の末寺があったが、時代の流れにより、現在数ヶ寺の末寺だけである。千手観世音菩薩は、聖徳太子が北陸御巡行の折、お登りになり、お作りになった仏様であります。

第23番札所 観音寺 住所は弥彦村観音寺453 ご本尊は聖観世音菩薩さまです。
入り口に大きな金色の観音様がおられます。これが目印になります。
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■ご縁起
 御本尊聖観世音は、聖徳太子御作と伝えられる。その昔、安倍貞任の残党、黒鳥兵衛征伐の為、京都より当地に下った、北畠中納言時定公の守り本尊であった。時定公は、戦いの途中武運つたなく戦死してしまったので、守り本尊の観世音は、この地に庵を建て、安置したのである。この観世音を「このめ沢の観世音」という。今はこのめ沢の地名は、どこか不明であるが、以前観音堂は七曲りに有った。この七曲りを、昔は、「このめ沢」と言ったことからきているらしい。平成15年(2003年)に再建。

第24番札所 景清寺 住所は西蒲区平沢455 ご本尊は千手観世音菩薩さまです。
近くには新潟県で最初にできたゴルフ場があり、その横の細い道を抜けていきます。
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■ご縁起
 昔景清という人がいた。源氏の家に生れたが故あって平家の一族となった。幼い頃母と同じ観世音の霊夢を見て作られたのが一寸八分の紫金の観世音である。この観世音の背後には景清の2字が刻まれている。源平の戦いで平家は亡び景清は悲運な運命をたどったが、常に観世音を念じ救われた。建保2年(1214)8月15日九州宮崎で景清は48才で亡くなった。景清の忠臣景門という人は、奥州飯田山の麓平沢村の出身であったが、景清の遺言によって観世音を守って故郷へ帰る途中この地を通り、故郷と同じ平沢村というのでここに観世音を安置して生涯をとじた。

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2022年08月15日

越後三十三観音巡礼その5 後編

この日は丸々1日かけて、まだまだ頑張って巡拝させていただきました。第十八番札所は長岡市岩井にある根立寺です。ご本尊様は正観音菩薩様です。こちらは関係者と思しき方が石組みの階段を手作業で修繕されていました。本当にお寺の形態や運営は様々であり、継承することの大変さが伺えました。
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■ご縁起
 天和年中(1681〜83)の頃、この地方に眼病が大流行して苦しむ人が多かった。古志郡上条村の田中清蔵という人は、この眼病の苦しみを観世音に救ってもらわんものと、観世音を念じながら7日間の断食をした。満願の日、少しまどろんだかと思うと、1匹の蝶が眼の中にとびこんだ。しばらくして夢から覚めてみると、両眼は開き、眼の病はすっかりなおっていた。清蔵は感激のあまり出家して名を清観と改め、一生をこの観世音につかえた。現在の観音堂は140年ほど前に再建され、町の文化財に指定されている。濡縁の袖と桁上の彫刻はすばらしく、このお堂の見所である。

第十九番札所は出雲崎町尼瀬にある光照寺です。ご本尊は正観音菩薩様です。こちらは幾つかのお寺が、色々入り組むようになっていて駐車場も少しわかりにくい状況でした。ただ参拝の方もほとんどおらず、どこに停めても問題なさそうでしたので、比較的迷惑にならないところに停めて、お寺を探そうとしていたら、越後三十三観音霊場巡拝の方の駐車場はそこではないと間髪いれずにご指導をいただきました。なんだかお寺の方も世知辛い・・・
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■ご縁起
 永保年中(1081〜83)の頃、尼瀬蛇崩の海上に毎夜光るものが見え、人々は恐れてここに近づこうとしなかった。その時、荒木甚助なる勇者がおり、或る日小舟で近づいてみると光の本体は観世音であった。甚助はおそるおそる観世音を持ち帰り、御堂を建て安置した。これが三光観音である。その後、謙信公の母堂がこの観世音に祈願したところ大願成就したので、荒廃した堂宇を再建し、自ら光照坊と称し開基となった。尚、当寺十二世玄乗破了和尚について良寛和尚は安永4年18歳の時出家得度し修業した。

この日の最後は第二十番札所の照明寺です。長岡市寺泊にあり海の見える高台にあります。ご本尊は聖観世音菩薩様です。
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この階段の先にお寺とそれに連なる立派な施設があります。またお福様という一緒に写真を撮ると福がもらえる像もあります。
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寺泊の鮮魚センターも近いので、こちらにお越しの際は是非立ち寄ってみてください。
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■ご縁起
 照明寺観音堂の御本尊聖観世音菩薩は、弘法大師入唐の祈願仏として、大師住房の高野山龍光院(中院御房)に安置してあったが、永承2年(1047)栄秀阿闍梨が霊夢に依り、尊像を背負って諸国を巡行中、当所が景勝の地であったため、一庵を結び、本尊を安置し、如意山宝光院照明寺を開創した。寺伝に依れば源義経や上杉謙信も武運長久を祈念し、また、元禄8年(1695)5代将軍綱吉公の息女が眼病平癒の霊験を受けた折、幕命に依り村上城主榊原政倫が、新しい観音堂を建立寄進したと云う。其の後曲折があり、大正15年現本堂を再建した。
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越後三十三観音巡礼その5 中編

7月10日次に向かったのは見附市椿沢町にある十六番札所椿沢寺です。こちらのご本尊様は千手観世音菩薩様です。町の真ん中にあった十五番札所からまた緑豊富な地域へと移動しました。こちらは山門とお寺がかなり離れていて。少しわかりにくかったです。
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■ご縁起
 当山は大同2年、善光寺で四十八夜念仏修行された常尊上人が、阿弥陀三尊を彫刻して安置したのがはじまりで、境内に八カ寺を擁し七堂伽藍並び備わった大寺院であったという。殊に椿沢寺観世音のご縁起には、『昔、この村に椿の霊木が流れついた。丁度その頃、北越巡錫中の行基菩薩が、この霊木を一刀三礼して彫刻したのが御丈三尺五寸の本尊千手観世音である』と。その後上杉謙信公もこの観世音を深く信仰され、祈願成就の御礼として寺領、仏画、陣銅羅等礼状を付けて寄進され、今尚寺宝として保存され、本尊と共に1代1回の御開帳となっている。※ 観音堂は椿沢寺より離れたところにあります。ご朱印等は椿沢寺で頂けます。

第十七番札所は見附市小栗山町にある不動院です。こちらのご本尊様も千手観世音菩薩様です。こちらは色々な施設が併設されていてお寺の形態も本当に様々だと感じさせられました。ご利益に差があるわけではないと思いますが・・・
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■ご縁起
 行基菩薩が、この地で自ら彫刻して安置された御丈五尺の千手観世音が御本尊である。この観世音の開眼法要のとき、山上に北斗七星が煌々と輝いたので、その山頂に観世音の守りとして七所権現をまつり、その山を七所山と名づけた。その後、紀州日高郡日吉郷浄蓮上人と坂上田村磨が力を合せて伽藍を建立し寺は栄えた。又上杉謙信公も深くこの観世音に帰依し境内に我浄寺・福常寺の2ケ寺を建立して観世音の供養を命じた。八幡太郎義家もここに参詣し鰐口を奉納したという。七所山と呼ばれる裏山は経塚になっており銅製の仏像等県重要文化財が多く発掘された。
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越後三十三観音巡礼その5 前編

7月10日に5回目となる巡礼に出かけてきました。この日も晴天に恵まれ清々しい気持ちで巡拝せさていただきました。この日は小千谷市片貝町にある第十四番札所の真福寺を最初にお参りさせていただきました。
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ご本尊は正観音菩薩様です。
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■ご縁起
 当山は大同元年の草創なり。その頃この村に一人の信仰深き優婆塞あり。或夜夢に龍神あらわれ告げて曰く「池水の辺に一寸八分の黄金の観音像まします。汝に授くべし」と。夢よりさめ、池水の辺を探しみるに黄金の観音像光明赫々たり。彼狂喜して傍の薫木を用い一尺八寸の像を刻し件の像を胎内佛として拝み続けり。星移って延宝元年火災にかゝり堂全焼す。不思議と胎内仏のみ灰上に立ち給う。住職其の胎内仏を供じて京に登り、三宝院御門主にこの不思議を奏す。宮にも感得し給い、一刀を転じて一尺八寸の正観世音を刻し住職俊永に与え給う。当山本尊はこれなり。

第十五番札所は長岡市柏町にある千蔵院です。今迄の札所と違い長岡の街中にあり、その佇まいも大変立派なものでした。
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ご本尊は千手観世音菩薩様です
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■ご縁起
 本尊千手観世音は、天平勝宝年間行基菩薩御作一寸八分の黄金仏で、文治2年京都より下り、源氏後に村上家武将代々の兜仏ぼとけとして信仰されたが、種々の奇瑞あってこの地に安置されるようになった。以来この地は千手村・千手町と呼ばれ、門前町として発展した。江戸時代、長岡藩主牧野公の祈願寺として、又広く庶民信仰の寺として栄えたが、この観世音を深く信仰した草間俊重が、京都の仏師鶴屋四郎御作の千手観音木像の腹中深く本尊黄金仏を秘蔵した。本尊は、明治戊辰戦争・昭和20年8月1日長岡空襲にも奇跡的に安泰であった。総檜造の観音堂は、昭和57年に建立された。


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2022年08月01日

臨床歯科を語る会

7月2・3日に3年ぶりに臨床歯科を語る会が開催されました。コロナの第7波が来る前に開催できたことは何よりでした。今年は分科会と全体会の発表を依頼されたので、3年ぶりの開催にふさわしいものになるよう準備を進めました。皆が集まる会は、やはり臨場感が違いました。久しぶりに楽しい会でした。しかし毎日発表があったため、懇親会は翌日の準備のため早々に切り上げました。もう少し多くの方々とコミュニケーションできると、もっと良かったと感じました。
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2022年07月28日

越後三十三観音巡礼その4 後半

越後三十三観音巡礼その4 後半
第十二番札所は南魚沼市にある天昌寺です。ご本尊は正観世音菩薩さまです。
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巡拝をお願いすると、鍵を貸してくださって隣の階段を上った先に正観音菩薩さまがいらっしゃるとのことでした。暑い日で汗を流しながらお参りしました。
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鍵を返しに戻ると、住職の奥様と思しき方が「法要から戻ってきたところ」「お饅頭をどうぞ」と地元の名物のおまんじゅうをくださいました。美味しかったです。ありがとうございました。
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■ご縁起
 養老6年(722)天下に悪病流行す。藤原房丸公(鎌足の曾孫)観音菩薩を祈念し、一子を得た前の因縁により、尊像を彫して加護を受けんとて、越の聖者泰澄大師に懇願した。長和元年(1012)密教行者恵心僧都、諸州の霊仏巡拝の時、当地魚野川西に紫雲天頂を覆える飯盛の山あり。怪みて窺うに大樹の下に朽たる大古仏一躯在り。礼せば泰澄大師作の正観音の像なり。依って自ら脇侍多聞・持国二天及び薬師像を彫し侍神とした。延徳元年(1489)雪洞庵七世禅実和尚を請し開山とし曹洞宗となり、天正元年今の寺号となった。

第十三番札所は魚沼市田川にある弘誓時です。こちらのご本尊も正観世音菩薩さまです。こちらの入り口には自前と思しき跨線橋が設置されていました。
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敷地に中には鉄筋の建物があり、お寺とは程遠いイメージでした。
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奥には立派な建物がありました。やはりここでも誰にも会いませんでした。
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■ご縁起
 長元5年(1032)京都の醍醐寺の名僧海信阿闍梨が、巡錫の折、白山権現のお告げにより、この地で敬刻、醍醐寺第五世仁海僧正により開眼されたのが、この観世音菩薩である。元中元年(1383)足利3代将軍義満公の奥方が、長子義持公ご誕生のとき、この観世音に安産祈願をされ、無事義持公が御誕生されたところから、「子安観音」といわれるようになった。その後嵯峨御所より十万石の格式を与えられ、元禄14年に京都智積院の法流を相承し、常法談林所の免許をうけ、多くの聖経、寺宝、古文書を有している。

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越後三十三観音巡礼その4

先月6月26日に4回目の霊場巡りを行いました。第九番札所は広済寺です。柏崎市高柳にあります。近くに「じょんのび村」があります。
 ■ご縁起
黒姫山の如意輪観世音は、霊験あらたかで、機織の熟達を願って、子女が盛に参詣したという。明治維新の神仏分離の頃、山上の観世音は何者かによって谷底へ落とされてしまった。村人は、谷川より漸く観世音を見つけたが、破損した部分がなかなか見つからなかった。そこへ旅の僧が通りかかり、破損した部分を次々と見つけると姿が見えなくなってしまった。人々は、その僧を観世音の化身ではないかと語り伝えている。広済寺は、天正年間に、佐橋朝広によって開創され本尊は如意輪観世音であり、後に別当となった。
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第十番札所は長徳寺です。十日町市朝栄にありご本尊は千手観世音菩薩さまです。こちらは阿吽像のある入り口から、とても立派で今まで巡拝した中でも随一の佇まいでした。
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参道も素晴らしく整備されていて、多くの方々に厚く支持されていることが随所に垣間見られました。また戦争時の外国の方の労働者を慰霊する場所も裏手にあり、土木関係からもきっと多くの支持を得ていると思われました。

■ご縁起
延暦20年(801)征夷大将軍坂上田村磨の開創で、僧延鎮作と伝えられる御丈四尺二寸の千手観音は、京都清水寺の観世音と同木といわれている。田村磨は、奥州に勢力を持つ高丸という逆賊を退治して帰京するおり、この地に休息をし、再び出発しようとすると、不思議にも観世音は盤石のごとく動かなかった。
田村磨将軍は、ここに一宇を建て、観世音を奉安し、家来の伊勢ノ平氏、友重等を守り役として残し、帰京した。その名残りで、この周辺の地名は伊勢平治、友重となったと伝えられている。



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第十一番札所は大福寺です。こちらは南魚沼市長崎にあります。ご本尊は聖観世音菩薩さまです。こちらにはとても大きなイチョウの木がありました。思わず対比の写真を撮影しました。
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 ■ご縁起
本寺は聖徳太子の開基にして、開祖は玄珍法印なりとか。弘法大師越後国巡化の折、薬師仏及び十二神将を金精山の巌窟に安置し大福寺の奥院と称した。なお観音様は三十苅という所にあって三十苅の観音様として深く言仰されたが、明治に入って現在地に移された。寺も観音堂も一切の記録を焼失しており詳しく知ることが出来ない。本尊聖観世音菩薩は弘法大師御作と伝承されている。

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2022年07月27日

越後三十三観音巡礼その3

先月6月16日に3回目の霊場巡りを行いました。この日は刈羽村の第五札所から柏崎市の第八札所までお参りさせていただきました。第五札所は宝蔵寺です。
■ご縁起
 本尊十一面観世音は、弘法大師御作といわれ、上杉謙信公も深く信仰しておられた。川中島の戦の頃、謙信公は「若し戦に勝利を得れば、御供料を寄進し、長く子孫に言い伝え、信奉さすべし」と観世音に誓った。勝利を得た謙信公は、その誓い通りに、寺領八十石余りを寄進した。その後、上杉景勝が米沢へ国替の時、当寺も同道することになって観世音を舟に乗せたところ、いっこうに舟が動かず、よって元の所に安置した。このことから山号は、普光を不退山と改めた。
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第六番札所はやはり刈羽村にある常楽寺です。ご縁起は以下のようになります。
■ご縁起
 天平8年行基菩薩、諸国修行の折、森々としたここの霊窟を仏法応化の地であるとして暫く留錫された。毎夜北方に不思議な光りあり、見ると四尺四方の井戸があり、行基菩薩が錫杖をもって井戸の中をさらってみると三尺余りの霊木であった。御仏の与えられた物と思い、みずから彫刻して正観世音を安置し、一宇を建立した。幾多の興亡盛衰を経て今日は無住職になっている。
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第七番札所は柏崎市藤橋にある摩尼珠院です。道路のすぐそばで驚きました。

■ご縁起
 聖武天皇の頃、およそ一千二百有余年前1人の六部が摩尼珠院を訪れ、「これは越後藤橋の観世音である。」といって、1体の聖観世音を置くと、いづことも無く立ち去って行った。それ以来、この村に良い事が続くので偏えに観世音のお陰であると思い、道端に御堂を建て、観世音を安置したところ、あまりにもあらたか故に、馬に乗った武士が、この御堂の前を通ると落馬して怪我をすることが度々起った。それで今度は、近くの閑静な山の中腹に御堂を建てて安置したら、それからはまた、村に平和が訪れたという。また、平成17年、御堂の老朽化と地震により、寺院内に移し、安置しました。

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第八番札所は柏崎市宮之窪にある不動院です。こちらはあまり看板などなくちょっとわかりにくい場所にありました。

■ご縁起
 大同2年、空咢上人の開創で、その頃は、大木茂り鷲が多く棲んでいたので、鷲尾山といい、不動仙示現の地であるところから不動院という。本尊千手観世音は、延文3年、仏師弘円上人の作と伝えられ、桂材で彫刻された御丈五尺の尊像である。昔は、堂塔伽藍8棟が建立され、上杉謙信公の祈願所として栄えたが、天正6年の兵火で伽藍、宝物など一切を焼失した。本尊観世音は、その時谷底へ投げ落され、あやうく難を逃がれた。昔栄えた寺の跡は、今でも山上に残って往時が偲ばれる。


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今回の巡拝では、本当に誰にも会うことはありませんでした。お寺の方にもお会いすることもありませんでした。コロナのこの時期にはぴったりと感じましたが、本当にこのような文化的建造物の維持の大変さが随所に垣間見られました。また歴史の中では火災によって焼失することが多いことにも驚きました。現代では人に会うこともないのに・・・
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